110 朝酌矢田(あさくみやだ)Ⅱ遺跡で弥生時代の配石木棺墓(はいせきもっかんぼ)を確認


島根県埋蔵文化財調査センターでは、大橋川河川改修事業に伴う発掘調査を行っています。今年度、松江市朝酌町に所在する朝酌矢田Ⅱ遺跡E区の発掘調査を行ったところ、類例の少ない弥生時代の配石木棺墓等が確認されましたので、調査成果を公表します。

1.朝酌矢田Ⅱ遺跡について
(1)遺跡の概要:朝酌矢田Ⅱ遺跡は松江市朝酌町の大橋川北岸に所在する。令和2年度のC区の調査では、『出雲国風土記』に登場する「朝酌渡(あさくみのわたり)」に関連する古代の石敷き護岸が発見され、注目された。今回の調査地(E区)は、この石敷護岸より北西約100mにある丘陵部で、斜面部を中心に縄文時代から古墳時代までの様々な遺構や遺物が発見された。
【縄文時代】弥生時代の遺構の下から、縄文土器が出土しており、現在調査中。
【弥生時代】中期と推定される配石木棺墓1基、配石を伴わない木棺墓と考えられる墓を2基以上確認(現在内部を調査中)。他に後期の建物跡1棟、土坑1基(青緑色のガラス小玉1点が出土)を検出。また、後期の木棺墓と推定される遺構も調査中。 
【古墳時代】終末期(飛鳥時代)の建物跡2棟以上を確認。うち1棟は床面にカマドを使用した被熱痕跡を検出。また、土器の出土状況などから丘陵上に後期の古墳、あるいは祭祀遺構があった可能性もある。
(2)弥生時代の配石木棺墓
配石木棺墓は、長さ182㎝、幅74㎝、深さ40㎝以上の長方形の墓壙(墓穴)に、木棺を納めて埋めた後、上面を径約15~35㎝の扁平な川原石(現存60個、流出分を合わせると80個程度と推定)で覆った構造をもつ。
<配石の状況> 木棺が腐朽した際に埋土とともに陥没しており、中央部の石材を中心に大きく落ち込んでいるが、土層観察の結果、構築方法は現時点で以下のように推定復元している。
① 木棺の蓋(ふた)の上に黄白色の土を数㎝の厚さで盛り、中央部に標石(ひょうせき)と考えられる石を1個だけ置く
② 標石上面が見える程度に、さらに土を盛る
③ その上面・周縁部に川原石を貼り付け、すき間を土で埋める
④ 盛土南端(推定で頭部側の真上にあたる位置)に小石を4個置き、その上に長径35㎝の扁平な川原石を置く(支石墓(しせきぼ)状の標石)
<木棺痕跡> 木棺は腐朽して残っていないが、その痕跡から外法の長さ125㎝、幅30~40㎝の長方形で、高さは推定40㎝程度と考えられる。
<遺 物> 配石の隙間から弥生土器小片と磨製石斧1点が出土しており、木棺内部は現在調査中で、副葬品は現時点では未確認である。
<周辺の木棺墓等> 配石木棺墓の周辺に、配石構造をもたない木棺墓や、木棺をもたない土壙墓(どこうぼ)が計3基集中しており、これらが一つのグループとなると考えられ、調査区北側にも広がる可能性がある。 
(3)調査期間 令和4年5月23日~8月5日(予定)調査面積約300㎡
(4)調査の成果と意義
① 配石木棺墓は、弥生時代初めに朝鮮半島から伝わった墓制で、弥生時代前半期の山陰にも広がるが、類例は少なく、その伝播や変遷の実態を考える上で貴重な資料を得ることができた。類例:松江市鹿島町堀部(ほりべ)第Ⅰ遺跡(1998年旧鹿島町教育委員会調査、一部県指定史跡)松江市浜乃木町友田(ともだ)遺跡(1981年松江市教育委員会調査)
② 配石木棺墓の配石構造・構築方法の推定復元から、配石構築前の標石と構築後の標石の2種類の標石が抽出された。特に後者の構造は、小型ながらも朝鮮半島西南部や西北九州に見られる「碁盤型(ごばんがた)支石墓」と共通し、上記①の伝播や変遷を考えるうえで注目される。
③ 今回の調査区では、縄文時代から古墳時代までの集落跡や墓跡が、狭い範囲に重複して発見されたことから、この地域が古代に朝酌渡が置かれる以前から、重要な地域(交通の要衝など)として幾度も土地利用が行われてきたと考えられる。

2.その他
調査成果を公開するために現地説明会の開催を予定していましたが、新型コロナウイルス感染症が蔓延しているため、このたびは一般向けの公開は中止し、朝酌地区住民限定の現地見学会を開催します。後日一般向けにインターネットによる動画公開を予定しています。
・日  時 令和4年7月23日(土)10:00~11:30
 ・開催場所 朝酌矢田Ⅱ遺跡現地(松江市朝酌町) *会場は別添地図を参照
※報道関係者の現地取材については随時受け付けます。